冬の時代を笑いで乗切るために<短編物語>読むだけで税や会計の 生きた知識が不思議に身に付く
<短編物語>第9話 いとをかし・・M&A その9
シーン9 単野社長の心の風景
正井と駅前で別れて自宅の玄関前に着いた単野は、奇妙な気持であった。普段は玄関を入っても「お帰り」という声がなくても明日の仕事の段取りに気持ちが行っていたので気にならなかったが、この日は一歩入って、ひっそりした家の中から湿り気の多い空気が身にまとわりつくのを感じた。
主任夫妻がシンプル興産(株)の業務を引継いでくれることが決まったことで得意先に迷惑をかけることなく身を引くことができる安堵感の向こう側に、この自宅を処分して会社の銀行借入金も連帯保証も、ひいては会社もなくなる日がすぐそこに来ていることに気がついた。自分が作り上げてきたものが無に帰す。むかし親が去って一人になってしまったときの不安が再び単野に取り付こうとしていた。
施設に預けられ、自信もないままで、仕事に就いた初めのころはその生い立ちから「どうせ自分なんか、、何もできはしない。」と投げやりな気持ちで「自分は人より劣っているのだから」と自分勝手な言い訳を逃げ場にして自分を慰める習慣が身に付いて行った。辛いことが起こった時には逃げ場に逃げ込んで嵐が過ぎるのをやり過ごせばよかった。自分を内側に閉じ込め心はドンドン弱くなり、目立たぬように、失敗しないようにすればよいと考える性格になってしまった。
そんな或る日、工場で仲間が誰一人手を出さない難しい仕事が来た。臆病であった反動からか「オレがやります」と一歩前に出た。今でも何がそうさせたのか彼にはわからない。自分で自分を押し込めてきたことにもう一人の自分が耐えきれなくなって殻を突き破って表に出てきたとしか思えない。あるいは誰もが手を引く「仕事」からのメッセージが単野の心を突き動かしたのかもしれない。その日以来、同僚の彼を見る眼が確実に変わった。そのころからであった、仕事に関する書籍を買いあさり終業後に毎晩毎晩勉強に励み、休日も仕事の工夫に没頭した。失敗することの恐怖心を捨てた彼は職場で認められ、やがて独立することに繋がった。
玄関に立ち尽くしたまま単野は「何でこうなってしまったのだろう」と自分に問う。紙からデータへの移行は更に速度を増し断裁の仕事は少なく、同業者間で取り合いになっている。
主任と副主任で仕事が確保できるのか。彼らが心配になって来た。自宅を売却することは避けられない。しかし借金をキレイに完済したら再建ができるのではないか。自分の役目もまだ残されている。
これまで気にしてきた自宅売却による譲渡所得税が掛かってきたら自分には支払えない。譲渡所得税は払わないで、借金が無くなった会社を畳むことなく事業を継続できはしないか、会社を継続しようにも税理士は債務免除益が4億円もの多額になると言っていた。それなら法人税の負担で立ち行かなくなる。単野は会社の状態を正井に聞こうと受話器を手に取った。
<正井税理士との電話でのやり取り>
正井はワカリヤスク話す。
・社長は会社の借入金を返すために伏見のご自宅を売られます。会社に代位 弁済という立替払いです。だから立替えたお金を会社に返してもらう権利 これを求償権と言います。会社が社長に返してくれたら、普通の自宅売却と変 わりません。譲渡の税金がかかります。しかし会社には返す余力はありませ ん。求償権は使えないのです。自宅手放したうえ立替え先から返済されない、 そんな人から譲渡所得税を取らないのが64条2項の定めです。なのでこの条文 の適用には、言わば会社が死んだも同じ状態でなければなりません。
・解散しなくても所得税法64条2項は貴社が債務超過であれば、使えます。平成 14年12月に国税庁資産税課長の通知が出ています。貴社は債務超過ですから この条項で社長の譲渡所得税はかかりません。
・反面、会社には前に申し上げましたように債務免除益が計上されます。手前 10年間の繰越欠損金だけでは債務免除益課税は逃れられません。それ以上 前の期間の欠損金を使う必要があります。事務所に寄ってその金額は調べまし た。そのためには会社を解散することと残余財産がないと見込まれることが 要件です。会社を解散・清算しないで今のままにしておくことはできますが、 そうなればシンプル興産(株)は欠損金を使えないので多額の法人税を払わな ければなりません。そんな税金を払えば社長にも退職金も出ません。
・以上が税理士としての回答です。出過ぎたことを申し上げることになります が、主任も副主任もこの会社に残って給料をもらう気はないように見えます。 自分の事業としてスタートしたいのです。会社の役目は終わったと思います ョ。この傾向は貴社だけではありません。人手が不足するこれからの流れで す。資本主義経済がどうなるか分からない今時、勤め人ではなく、みんな自分 の事業がしたいのです。現に変化を嫌う老舗から経営がおかしくなっていま す。
単野はすべてが終わったと思った。自分の居場所はもはやない。こんな時が来るとは心の隅で思ってはいたがこんなに早いとは思ってなかった。